レポートメモ
2004年9月28日わが国にビールが入ってきたのは英米の船が来航してからのことです。万延元年(1860)、幕府の第一回遣米使節の一人、玉虫左太夫は初めてビールを飲んで「苦味ナレドモ口ヲ湿スニ足ル」と書いています。
それ以前、ペリーが来航した嘉永6年(1853)に、蘭方医川本幸民は蘭書の記載を見て、江戸の露月町の私宅でビールを試醸したといわれていますから、これが日本でのビール醸造の起源といえるでしょう。
明治3年にはアメリカ人コープランドが横浜の山手居留地に「スプリング・バレー・ブルワリー」を創設してビールの醸造を開始し、主に居留外人向けに販売しました。
明治5年に大阪で渋谷庄三郎が日本人では初めてビールの醸造・販売を本格的に開始、翌6年には甲府で野口正章が、そして9年には札幌で北海道開拓使麦酒醸造所が創設され、中川清兵衛を中心に醸造を開始、翌10年には東京に出荷しています。こうして日本のビール産業は黎明期を迎えることになります。
一時は100社前後のビール会社ができるほどで、ザンギリ頭で代表される文明開化は日本人の生活様式にも多くの変化を与え、ハイカラ族はビールを好み、文明人たらんとしたといわれています。ただし、この時期は国産ビールに比べ舶来ビールが幅をきかせていました。
明治20年代に入ると日本も産業革命による近代化が本格的になってきます。近代的なビール会社が各地に誕生し、新しい時代を迎えつつありました。
明治20年には東京で日本麦酒醸造会社が、21年には北海道庁から払い下げられ札幌麦酒会社が、22年には大阪で大阪麦酒会社が設立され、26年にそれぞれ日本麦酒株式会社、札幌麦酒株式会社、大阪麦酒株式会社となりました。また、横浜のコープランドビールは、その後香港法人のジャパン・ブリュワリー・リミテッドが引き継ぎ、明治21年から麒麟ビールを発売しています。現在に至る会社はいずれもこの時期に新たな出発をしています。
明治16年、日本のビール総生産量は1,155石(約208kl)、輸入が2,500石(約450kl)だったものが、20年には国産17,508石(約3,151kl)、輸入9,053石(約1,630kl)と国産と輸入が逆転し、30年には国産65,717石(約11,829kl)、輸入が858石(約154kl)となり、この時期、ビール産業の著しい成長がわかります。明治の初めにはビールには酒税が課せられていませんでした。一方、清酒は地租と並んで歳入の二本柱となっており、ビールに比べて不公平であるという不満が高まっていました。明治33年、北清事変が起きると、翌年10月にビールにも軍備増強のために酒税が課せられることになります。資金力の弱い小醸造所はその負担に耐えられず、姿を消していきました。ビール産業は明治30年代から40年代にかけて再編成されることになりました。 大正3年に第一次世界大戦が勃発しましたが、日本は地理的条件にも恵まれ、ほとんど参戦することなく経済的には好況を迎えることになりました。ビール業界もその恩恵を受け、ヨーロッパからビールの補給を断たれた東南アジアやインドの市場に進出するなど大戦景気を満喫しました。その後もビールに対する需要は旺盛で、ビール会社は次々に新工場の建設に乗り出し、新たにビール事業を始める会社も現れ活況を呈しました。ちなみに、第一次世界大戦の終了した翌大正8年、アメリカでは禁酒法が議会を通過し、ビール醸造機械が不要となりました。これを買い取った日本の企業家が新しいビール会社をつくるようなことも起こりました。大正末期から昭和初期にかけて大戦後の反動的不況が深刻化し、消費量の低下や安売り競争の激化などビール産業も混乱と低迷の時代を迎えることになります。昭和8年、大型の合併および共販会社の設立により業界の秩序は徐々に回復し、14年には戦前の最高である31万klの生産量を記録しました。
昭和14年、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、政府は国家総動員法の発動を決意し価格統制令を施行、物価だけでなく原料や製造量まで統制を受けることになりました。ビールの価格統制は昭和14年の価格指定から始まり、15年には生産・卸・小売りの3段階について都市、地方別に公定価格が設定され、18年には全国単一の公定価格となりました。
また、昭和15年には配給制が開始され、18年にはラベルはただ「麦酒」と書いただけのものになってしまいました。
太平洋戦争への突入により原料である大麦やホップは次第に入手困難となり、また電力・石炭なども不足したため、生産量は減少の一途をたどりました。終戦の年の生産量は昭和14年当時の4分の1となってしまい、この水準に戻ったのは28年になってからです。
この間、ビール税は戦費調達のためほとんど毎年のように増税されています戦後の混乱のなかでビール会社は復興への努力を開始しました。
昭和24年、ビール産業にも過度経済力集中排除法が適用され、トップメーカーである大日本麦酒が2分割されて戦後の新しい体制ができあがるとともに、酒類配給公団が廃止されて、ビール会社は自由に出荷・販売できるようになりました。同年6月には料飲店の再開を待ってビアホールも各地で復活、ビールファンが押し寄せ大にぎわいだったといいます。ついでながら東京都内では500ml入りジョッキ1杯が130円でした。
翌昭和25年には特約店ルートによる販売を開始して本格的な競争を再開し、27年には原料統制が解除されて、28年には戦前の最高水準を超す生産高を達成するまでになっています。
昭和30年代は所得倍増の波に乗ってビールに対する需要も大幅に伸びた時代でした。戦前のビール消費がほとんど料飲店であったのに対し、戦後はこの時期から家庭で飲まれるビールが飛躍的に伸びてきています。電気冷蔵庫が普及したのもこの時期で、家庭に買い置きされたビールが食卓に並ぶことになったのも大きな原因でしょう。
昭和39年のビール製造量は約200万klに達し、10年間で5倍の伸びとなったのです。こうしたなかでビール会社は生産能力の拡大に努め、新しい工場が次々に建設されました。新しくビール事業に進出する会社があったのもこの時期です。
昭和35年には統制が撤廃され、戦前の公定価格は基準価格制度へと移行します。さらに昭和39年には基準価格が廃止され、昭和14年の価格統制実施以来実に25年ぶりにビールは自由価格に復帰したのです昭和40年代はビール需要の伸び率が徐々に鈍化してきましたが、全国で10工場が新設され、製造量は10年間で約2倍に達しました。また、現在使用しているプラスチック箱の導入やビールギフト券の発売もこの時期に行われました。
昭和50年代に入ると、52年に製造量が400万klに達したものの年率平均2.6%の伸び率となり安定成長期に入りました。
その後、昭和62年に製造量が500万klを突破し、平成元年には600万kl、さらに6年には700万klを超えました。7年以降は景気の低迷等の影響により、再び600万kl台の水準となりましたが、6年に記録した713万5千klが過去最高の製造量となっています。
このように近年もビールの製造量は安定的に増え続けています。これは消費者の嗜好の多様化・個性化や女性の飲酒人口の増大に対応して、各種の新商品の発売を含め商品対策の活発な展開や、ビールをいつでも新鮮な状態で流通するためのフレッシュローテーションをはじめとする一層の品質向上努力により、健康的な低アルコール飲料であるビールの特性が消費者に幅広く支持されたことによるものと考えられます。
最近のビール工場は、消費者の方々が楽しくわかりやすく見学できるよういろいろと工夫がなされ、また外国ブランドビールの国内ライセンス生産を行っている工場もあり、国際的な広がりも出てきています。
さらに、規制緩和のひとつとして平成6年4月にビール製造免許に係る最低製造数量基準が年間2,000klから60klに引き下げられました。これにより…
それ以前、ペリーが来航した嘉永6年(1853)に、蘭方医川本幸民は蘭書の記載を見て、江戸の露月町の私宅でビールを試醸したといわれていますから、これが日本でのビール醸造の起源といえるでしょう。
明治3年にはアメリカ人コープランドが横浜の山手居留地に「スプリング・バレー・ブルワリー」を創設してビールの醸造を開始し、主に居留外人向けに販売しました。
明治5年に大阪で渋谷庄三郎が日本人では初めてビールの醸造・販売を本格的に開始、翌6年には甲府で野口正章が、そして9年には札幌で北海道開拓使麦酒醸造所が創設され、中川清兵衛を中心に醸造を開始、翌10年には東京に出荷しています。こうして日本のビール産業は黎明期を迎えることになります。
一時は100社前後のビール会社ができるほどで、ザンギリ頭で代表される文明開化は日本人の生活様式にも多くの変化を与え、ハイカラ族はビールを好み、文明人たらんとしたといわれています。ただし、この時期は国産ビールに比べ舶来ビールが幅をきかせていました。
明治20年代に入ると日本も産業革命による近代化が本格的になってきます。近代的なビール会社が各地に誕生し、新しい時代を迎えつつありました。
明治20年には東京で日本麦酒醸造会社が、21年には北海道庁から払い下げられ札幌麦酒会社が、22年には大阪で大阪麦酒会社が設立され、26年にそれぞれ日本麦酒株式会社、札幌麦酒株式会社、大阪麦酒株式会社となりました。また、横浜のコープランドビールは、その後香港法人のジャパン・ブリュワリー・リミテッドが引き継ぎ、明治21年から麒麟ビールを発売しています。現在に至る会社はいずれもこの時期に新たな出発をしています。
明治16年、日本のビール総生産量は1,155石(約208kl)、輸入が2,500石(約450kl)だったものが、20年には国産17,508石(約3,151kl)、輸入9,053石(約1,630kl)と国産と輸入が逆転し、30年には国産65,717石(約11,829kl)、輸入が858石(約154kl)となり、この時期、ビール産業の著しい成長がわかります。明治の初めにはビールには酒税が課せられていませんでした。一方、清酒は地租と並んで歳入の二本柱となっており、ビールに比べて不公平であるという不満が高まっていました。明治33年、北清事変が起きると、翌年10月にビールにも軍備増強のために酒税が課せられることになります。資金力の弱い小醸造所はその負担に耐えられず、姿を消していきました。ビール産業は明治30年代から40年代にかけて再編成されることになりました。 大正3年に第一次世界大戦が勃発しましたが、日本は地理的条件にも恵まれ、ほとんど参戦することなく経済的には好況を迎えることになりました。ビール業界もその恩恵を受け、ヨーロッパからビールの補給を断たれた東南アジアやインドの市場に進出するなど大戦景気を満喫しました。その後もビールに対する需要は旺盛で、ビール会社は次々に新工場の建設に乗り出し、新たにビール事業を始める会社も現れ活況を呈しました。ちなみに、第一次世界大戦の終了した翌大正8年、アメリカでは禁酒法が議会を通過し、ビール醸造機械が不要となりました。これを買い取った日本の企業家が新しいビール会社をつくるようなことも起こりました。大正末期から昭和初期にかけて大戦後の反動的不況が深刻化し、消費量の低下や安売り競争の激化などビール産業も混乱と低迷の時代を迎えることになります。昭和8年、大型の合併および共販会社の設立により業界の秩序は徐々に回復し、14年には戦前の最高である31万klの生産量を記録しました。
昭和14年、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、政府は国家総動員法の発動を決意し価格統制令を施行、物価だけでなく原料や製造量まで統制を受けることになりました。ビールの価格統制は昭和14年の価格指定から始まり、15年には生産・卸・小売りの3段階について都市、地方別に公定価格が設定され、18年には全国単一の公定価格となりました。
また、昭和15年には配給制が開始され、18年にはラベルはただ「麦酒」と書いただけのものになってしまいました。
太平洋戦争への突入により原料である大麦やホップは次第に入手困難となり、また電力・石炭なども不足したため、生産量は減少の一途をたどりました。終戦の年の生産量は昭和14年当時の4分の1となってしまい、この水準に戻ったのは28年になってからです。
この間、ビール税は戦費調達のためほとんど毎年のように増税されています戦後の混乱のなかでビール会社は復興への努力を開始しました。
昭和24年、ビール産業にも過度経済力集中排除法が適用され、トップメーカーである大日本麦酒が2分割されて戦後の新しい体制ができあがるとともに、酒類配給公団が廃止されて、ビール会社は自由に出荷・販売できるようになりました。同年6月には料飲店の再開を待ってビアホールも各地で復活、ビールファンが押し寄せ大にぎわいだったといいます。ついでながら東京都内では500ml入りジョッキ1杯が130円でした。
翌昭和25年には特約店ルートによる販売を開始して本格的な競争を再開し、27年には原料統制が解除されて、28年には戦前の最高水準を超す生産高を達成するまでになっています。
昭和30年代は所得倍増の波に乗ってビールに対する需要も大幅に伸びた時代でした。戦前のビール消費がほとんど料飲店であったのに対し、戦後はこの時期から家庭で飲まれるビールが飛躍的に伸びてきています。電気冷蔵庫が普及したのもこの時期で、家庭に買い置きされたビールが食卓に並ぶことになったのも大きな原因でしょう。
昭和39年のビール製造量は約200万klに達し、10年間で5倍の伸びとなったのです。こうしたなかでビール会社は生産能力の拡大に努め、新しい工場が次々に建設されました。新しくビール事業に進出する会社があったのもこの時期です。
昭和35年には統制が撤廃され、戦前の公定価格は基準価格制度へと移行します。さらに昭和39年には基準価格が廃止され、昭和14年の価格統制実施以来実に25年ぶりにビールは自由価格に復帰したのです昭和40年代はビール需要の伸び率が徐々に鈍化してきましたが、全国で10工場が新設され、製造量は10年間で約2倍に達しました。また、現在使用しているプラスチック箱の導入やビールギフト券の発売もこの時期に行われました。
昭和50年代に入ると、52年に製造量が400万klに達したものの年率平均2.6%の伸び率となり安定成長期に入りました。
その後、昭和62年に製造量が500万klを突破し、平成元年には600万kl、さらに6年には700万klを超えました。7年以降は景気の低迷等の影響により、再び600万kl台の水準となりましたが、6年に記録した713万5千klが過去最高の製造量となっています。
このように近年もビールの製造量は安定的に増え続けています。これは消費者の嗜好の多様化・個性化や女性の飲酒人口の増大に対応して、各種の新商品の発売を含め商品対策の活発な展開や、ビールをいつでも新鮮な状態で流通するためのフレッシュローテーションをはじめとする一層の品質向上努力により、健康的な低アルコール飲料であるビールの特性が消費者に幅広く支持されたことによるものと考えられます。
最近のビール工場は、消費者の方々が楽しくわかりやすく見学できるよういろいろと工夫がなされ、また外国ブランドビールの国内ライセンス生産を行っている工場もあり、国際的な広がりも出てきています。
さらに、規制緩和のひとつとして平成6年4月にビール製造免許に係る最低製造数量基準が年間2,000klから60klに引き下げられました。これにより…
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